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「 帰 郷 」
著 者 : 城 野 宏
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嵯峨野−
祗王寺 |
<嵯峨野>
桂川雨後の水(みな)せは高くさえ 嵯峨野の森はうす紫の霧
かし若葉しげれる下の木屋づくり いつきの宮は緑しずまる
くろぐろと緑はふかし野々宮の しずもるなかに鐘のきこゆる
かなしきは苔むす木々に西日さす 小督(こごう)の局(つぼね)
おくつきどころ都はるか竹のむら路もこえしなむ 源氏の君の
恋わたる宮 雨はれて嵐の山はうすがすみ
夏の嵯峨野の竹むらの色うす緑光しずけき落柿舎の
壁にかけたる蓑もふりたり
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上高地−
明神池 |
<上高地>
山の端(は)に朝日はのぼりからまつの 霧氷とけゆく上高地の谷
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富士山 |
<伊豆>
ひのき杉からまつ林うちつづく 裾野おしなべ富士はたちたり
裾野原ゆけどもつきぬ杉ひのき 仰げば富士はのしかかりくる
すすき原裾野はつきず森はるか 目いっぱいに富士の高嶺は
天城峠越えさりゆけば松探し 伊豆の踊り子ふみゆける路
緑濃き天城の道を登りしは 伊豆の踊り子と人の伝うる
碧き海無限の彼方ひろがれる 石廊崎頭立ちつくしあり
碧空(あおぞら)に富士はくっきりそびえたち
朝日輝く山中の湖(うみ) みずうみのさざなみ冴ゆるたまゆらに
さえざえ通るうぐいすの声
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尾瀬沼
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<尾瀬沼>
はてしなくつづく尾瀬(おぜ)原草蓆 吾亦紅(われもこう)にも心なごみぬ
雨晴れて尾瀬の水原(みずはら)色さえて 至仏(しぶつ)の山に
雲たちわたる
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ノサップ |
<ノサップ岬>
草野原雲のはたてにつづきけり かえりみすればオホツクの海
ノサップの岬のはては山うどの しげみにつづくオホツクの海
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苔寺 |
<苔寺>
苔寺の苔のしめりにこしかたの みやびのあとを思いみるかな
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<私の短歌のこと> 〜「帰郷」より抜粋〜
短歌をつくり出したのは、大学1年の頃だった。それ以前、第八高等学校の生徒の頃、哲学の
論文や詩や小説を書いて、学校の雑誌に出したことはあったが、短歌には興味がなかった。
東大法学部に入って政治学を専攻してやろうと思って南原繁先生の弟子になって法学部研究
室に入れてもらった。その夏休みに故郷の長崎に帰った。大浦の天主堂の近くをうろうろしてい
る時、ふっと口をついで「夢はるか秋やゆく日を頬にうけ異教の古き塔をあふげり」という歌が出
てきた。
ノートに書きつけてみたら次から次へと新しい歌が出てくる。ポケットに入れていた電話帳では
間に合わなくなり、近所の文房具屋で大学ノートを買って書きつけていった。とうとうその日に
100首ぐらいできてしまった。これが私のはじめてつくった短歌であった。
できた短歌のいくつかを法学部の「緑会雑誌」に毎年出した。3年間続けて出したというので記
念品をもらった。しかし殆どの友達は、私が短歌をつくるなどとは想像もできなかったらしく、ちゃ
んと本名で出しているのだけれど、おまえはあんなものをつくるのかと聞いてくれた人は一人もい
なかった。柔道ばかりやっている奴が短歌など100%無縁だと思っていたらしい。
そのうちに大戸元長、天野平吉などの法学部の仲間と南原繁先生を囲んで、法学部研究室の
先生の部屋で毎月短歌会をやるようになった。
こんなことをしているうちに、私の歌草は3000首くらいにたまってしまった。そのうちに歌集でも
出そうかと思っているうちに、中国との戦争になり、私も陸軍にとられて、中国戦場にかり出され
た。3000の歌草は何冊かのノートで家に残してきた。
米軍の爆撃がはげしくなり、東京にいた母は家財道具を親類の家にあずけて宮津に疎開した。
その家が何千坪かの大邸宅で、大丈夫と思っていたら、爆弾が落ちて一切焼けてしまった。
私の歌草ももちろん灰になってしまった。
中国にいる間も時々短歌をつくった。これもノートにためておいたが、太原落城で一切なくなっ
てしまった。
その後、中国の監獄で15年間すごした。監獄の中で歌など詠んだ人も沢山あるようだが、私は
一つもできなかった。うらみつらみとかつよがりとかは言いたくないし、自然も自然な流露も、か
なり制限された監獄では、私は歌がつくれなかった。
昭和39年4月、撫順監獄から釈放されて26年ぶりに日本に帰ってきた。日本の風物に接すると
また歌がつくれるようになった。少し経済的に余裕ができてきて、日本全国いたる所に旅をして
みた。自分で自動車を運転し、北海道から鹿児島まで、いろんなところを見てまわった。
日本の自然は美しい、しみじみそう思った。ヨーロッパや地中海、北アフリカ等、風光明媚と
いわれるところも、いろいろ見てみた。
しかし素敵だという自然には仲々ぶつからなかった。
日本の風景、自然そのもののデザインを絵で再現してやろうと思って絵をかき出した。かいて
いるうちに何回か個展をやった。そうしているうちに、とうとう日輝美術協会の理事長審査員に
されてしまい、プロの絵かきということにもなってしまった。
昭和57年に、「城野宏−光と影の世界」を出した。この本に何枚か入れたのは、その私の絵で
ある。
こうした私の絵になる日本の自然を短歌にしてみようと思った。そして同時に人間として感じる
心情をそのまま歌ってやろうと思った。私の短歌は少しづつ増えていった。
この一生の間、私の短歌は、一人の先生もなしにすごしてきた。全部自製である。教えてもらっ
たことはない。自由に勝手に、思うままにつくってきた短歌である。どこかの歌の会でほめてもら
おうとしてつくったものもないし、どこかの雑誌に出して短歌の大家としてみとめてもらおうとした
こともない。
ふつうの人が知らない特に難しい言葉を使って、ひねくりまわし、どうだおまえたちこういう言葉
は知らんだろうといばってみる趣味はない。こんな歌は読んでみても、何のことやらわからない。
つくったとて、自己満足だけで、何の意味もあるまい。
ふつうの人は気がつかないような細かいところ、心理のゆれや、木の葉の特別のそよぎといった
ところをとらえて、どうだおれは観察が繊細だろう、おまえたちは気がつくまいといっていばってみ
る趣味もない。
それでも自分では、自分の作った歌を思い出すたびに、それにあらわされた自然や人間の記憶
を再生し、楽しい思い出をもつことができる。他の人たちも、もし私の歌を見て、同様な感懐や自然
の思い出に遊ぶことができたら、住んでいる距離は遠くはなれていても、同じ場所で肩を組み合せ
て人生の一駒をすごすことができるのではないかと思う。
これがつまりは、私の短歌の歴史なのである。この本に入れた昭和10年から14年の歌は、日
本に帰って、図書館で昔、のせた雑誌からかき集めたものである。
昭和60年7月26日
城野 宏
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